すぎてしまったんだなあ、と少しだけさみしい。
彼の誕生日の9月16日は終わってしまった。
毎年毎年やってきては去っていく9月16日。
出会って初めてのその日は日光へ行った。
はりきっていたのでも、ワクワクしていたのでもなくて、
なんだか怖いことに挑戦するような感覚で宿をとり、実家に車を借りにいき、
あわてながら新宿ルミネのケーキ屋さんに駆け、
たしかケーキはトランクに隠した。
ほとんどペーパー化していた運転はかなり危なかしく、
高速道路でブー!と大きな音でクラクションを鳴らされた。
5才年上のぼくとしては終始カッコイイ人でいたかったから、
下手な車さばきにあふれた恥ずかしさの汗を隠そうと平静を装ったのをおぼえている。
その日は写真を撮った。
そのころ見向きもしなかったぼくの中では終わったはずのアナログカメラをひっぱりだし、
サービスエリアで、よさそうな日光のどこかで、和室のホテルでカメラを向けまくった。
あの日のぼくは、この人とこの先いっしょに暮らすことになるなんて微塵も思わなかった。
いつ終わりが来るかわからないから写真におさめておこうと考えていた。
しばらくは胸が痛むから見れないだろうけど、
でも、この人のこの今だけのあまりにぼくの心をとらえる姿を、
顔を、裸を未来の自分のために残さなくては。
純粋なんだか不純なのかわからない理由でシャッターを切っていた。
セックスのこととか、食事やお風呂がどうだったかとか、
なにもかもぐちゃぐちゃになって、
目に見えないどこかにその時間は今も静かに光っている。
きっと死を前にした最期の瞬間には、この日のことが思い出されるんじゃないかな。
それから12年。ぼくは今も彼といる。
毎日おはようってぼくは彼に言っている。
彼はおはようっていったり、ちょこっと会釈するみたいにしたり、
目だけで返事してきたりまちまち。
その態度に、なにそれ、と不満がわいたり、
挨拶を交わせることに幸せをおぼえたりぼくの感情は一定ではない。
その不安定さは、彼を今日も好きという証なのかも。
前夜、よしみさんに二人の写真を撮ってもらいたいなって思っていた。
記念写真を撮りたい自分が妙だった。
よしみさんは顔から身体か「YES!」という一択の答えで、撮影もパパパと終わった。
できあがった写真をみて、歴史を感じた。
この人ともしも何かのはずみで別れた42才のぼくはこんな顔で笑えた気がしない。
もっとすてきな人と出会って、もっといい顔をしていたかもなんて思えない。
それくらい彼との時間はぼくを育んでくれた。
彼はぼくの彼氏だけど、ぼくのものではない。
たとえ結婚しても彼を所有することはできない。
いつまでたっても、何年いても、何度交わっても、彼はぼくのものにならないし、
ぼくも彼のものにはなれない。
死ぬまで休まず歩いても頂上につかない山に登っているみたい。
猫もいつか死んでしまうのだろう。
よしみさんとのeat LOVEも最終回がくるかもしれない。
ミッチーとも今日が最後のおはようだったのかもしれない。
頭がおかしくなりそう。
あたりまえのような毎日はさもあたりまえのように現れては消えていく。
絶対的なその仕組みを前にちっぽけなぼくは何ができるだろう。
瞬間の感情感覚を抱きしめるように尊ぶ、
毎瞬毎瞬あきもせずにそうしつづける、精一杯生きる!
二人のポートレートをよしみさんはプリントしてもってきてくれるという。
あ、額にいれてみよう、どういう額がいいだろう、どこに飾ろう、
そもそもどういう大きさなのかしら、
自分たちの写真が飾られた空間って居心地いいのかな?
まだ存在しない1枚の紙きれが風を吹かせた。
なにが起こるかわからない未来は不安だけれど、とんでもない希望でもある。
彼との関係に特別な目的も目標もない。
ただ、ただ、大切なものを恥ずかしげもなく大切にしていくこと。
言葉にならないその何かが雪のようにつもって、
あなたや彼や彼女へとジワジワとしみだしていく。
そんな夢をぼくはみている。
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