今日は曇天。雨模様。
あの日もたしか曇天のはじまりだった。
迎えの車中でよしみさんに曇天だね、って言ったら、どんてん?
彼女のボキャブラリーに曇天はなかったらしい。
言葉っておもしろい。
ぼくはこの人生のどこで曇天をおぼえたのかを思い出していた。
たしか、
たまってバンドの「さよなら人類」って歌の、
曇天模様の空のした、ってフレーズ。
前後の歌詞はおぼえていないけれど、
曇天って思うときにさよなら人類のそこがループする。
記憶がループする。
よしみさんが撮ってくれたあの日の写真をみていて
今日は「記憶」って言葉が浮かんできた。
ミッチーとのこのごろの暮らしは、おおむね穏やか。
ケンカらしいケンカはこの1年していないかもしれない。
いや、ぼくはそう思っているだけであちらは何度もそういう思いをしたかもしれない。
ミッチーは基本、ぼくに何も言ってこない。
声を荒げられたことはこの12年一度もないし、
こんこんとお説教みたいなこともない。
ぼくはそうとうな臆病者だからたぶん激しく怒られたりしていたら、
今のこのふたりの関係があったかどうかわからない。
そういうぼくとそういう彼がふしぎと出会い結ばれた。
よしみさんのホロスコープをこの日もみた。
あんまりその手の話に興味がないミッチーをよそに、
ぼくは嬉々と彼女の星の配置をながめ、そこから読み取れる情報を伝えた。
彼女のホロスコープとぼくのそれは全然違う。
ぼくはどこまでも他人軸。
他者があってのぼくという青写真をたずさえ生まれたような人だけど、
よしみさんは反対。
どこまでも私! という印象。
じっさいの彼女からそうした I am I ってなことを感じるようになったのは、
ごく最近のことのように思う。
よしみさんは知れば知るほど自分の中の真実に忠実で、
その私であることの誇りみたいなものは、
それを揺るがせる出来事にあうほどに磨かれ、ますますくっきりと輝いていく。
そんな人と感じる。
ぼくはそれを、いいなあ、って思う。
その憧れはけれど憧れのまま、自分はそのようにあろうとしなくていいのよね、と、
自分らしさのようなものを保護する感覚を繰り返し繰り返し自分にしみこませている。
白いスープ茶碗はコンランショップで買った。
今から17年ほど前に親元をはなれた際、母と食器類を買いに行った。
そこで茶碗とスプーンとフォークとグラスをいくつか手に入れた。
グラスはすべて割れてしまった。
残るものとなくなるものと。
食器やグラスはある日割れ、新陳代謝のようにゆっくりと入れ替わっていく。
ぼくらの毎日に猫がやってきたのは9年前だろうか。
昔いたキュートな黒猫はいなくなり、いまは室内にきじとら姉弟が暮らす。
彼といることも猫がいることももうあたりまえのことになってしまった。
あたりまえすぎて、味のしなくなったガムみたいにありがたみがうすらいでしまった。
eat LOVE していると、忘れていたいつかの思いがふいに弾けて、
ああ、そうだった。となる。
かつてのぼくらはしょっちゅう気まずい雰囲気になって、ぼくはイライラして、
当然の権利みたいに彼を怒って、
それでもぼくの望む言葉が返ってこないことにますますイライラして、
しだいに悲しくなって、もう嫌だ。
なんの契約もない関係なのだから、いつだって終わりにできる!
なんてことを激しく自分に言い聞かせて、
そのどちらも傷つける言葉をすんでのところで飲み込みながら、
どうにかこうにか今日を終えたことなど幾度もあった。
彼もぼくも年をとったなあ、って写真に思う。
どこまでいっしょに年をとれるのかなあ。
人生に目的なんてものははたしてあるのだろうか。
わからない。だからわかりたいとずっと思ってきた。
でも、そういうものではないのかもしれない。
わかるんじゃなくって、つくる。
自分がつくるしかないのかもね。
ぼくは幸せにいたい。
幸せに死を迎えられるように幸せに生きたい。
今思いつくかぎりでそれを叶える方法は、目の前を大切にすること。
猫も彼も眠るこの朝は、みんなを起こさないように静かにmacのボタンをたたく。
気配も静ひつを心がけ、彼らの寝息を愛しむ意識。
そして、そんなことを考えられるようになった自分をすてき! って思ってみる。
この雨で、庭の金木犀はずいぶん散ってしまっただろうか。
かぐわしく香る秋からの贈り物。
風が緑を揺さぶっている。
ぼくの平凡な今日のはじまり。
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