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  • 執筆者の写真eat LOVE

eat LOVE Day 3 / 愛をたべている

更新日:2018年9月9日

きのうのことなのに、はるか昔のようにおもえるのって不思議。


先ほど、よしみさんから送られてきた丸1日前の時間をうつした写真をみて、

なんだかとても愛おしい気持ちになっている。

すぎてしまったいつかは、それがさっきでもうんと前でも等しく過去。

もう手出しできないコンプリートされた時空なんだ、って思った。


今回は「お昼に行くのってどうですか」というよしみさんの一声から、正午に集合。

ぼくはほかにやりたいことがあり、迎えはミッチーに担当してもらった。

よしみさんを、ぼくらの集合場所である駅前はTSUTAYA前でみとめる瞬間の、

あのなんともいえない、ニヤニヤしてしまう感覚を味わえないことをすこし惜しみながら、ミッチーを送り出した。


やってきたふたりは、スーパーでの買い出しを終え、

ひとしきりおしゃべりも済ませていたのだろう、想像よりも静かな雰囲気。

みな、お腹が空いていたのか、お茶を飲んで一休み、みたいなことはせず、

そのまま台所へ行き、そのまま調理と撮影をそれぞれがはじめた。


人同士の再会にはもれなく、

互いのエネルギーを調整するチューニングの時間が必要だと思うのだけど、

それをきっと、車中とスーパーで終えていたのかもしれない。


本日のメニューはパン。ほとんど毎日お昼に食べている食パン。

だいたいぼくらは1枚をチーズトーストにし、

1枚をバターたっぷり塗りこみそこへジャムやらはちみつやらをたらす。

飲み物はコーヒー。

だいたい無言ですごす。

それがぼくらの日常。


前夜、よしみさんから、

失礼だったらごめんなさい。でも、私はふたりの普段の時間を撮りたい。

というような短いメールが届いた。


うん、わかる。と思ったが、それってむつかしいとも思った。

ドキュメンタリー作品というものは、

映像でも写真でもそこにカメラが入り込んだ時点で、もう非日常になってしまう。

撮影されることを意識しないように努めた日常風の非日常となる。

カメラを意識しないほどそれに慣れるということは、

もっかのぼくとは似て非なる人物である、ともいえる。


ミッチーはミッチーで、撮影だから華やかに、

という意識を可能なかぎり除去して前回のぞんだようで、

どこかよしみさんの「お願い」にショックを受けていそうだった。

この人は、なんと繊細なことか。

と、その姿に母のような目線で彼を保護したい気持ちがわいた。

そうして、よしみメールをきっかけに、

ぼくらは感じていることを言葉にして伝え合う運びとなった。

よしみさんが「ハレ」と感じたかもしれない料理は、ぼくらの感覚では「ケ」だよね。

そう、そうなの、あれがぼくらの普通なのよね。


思い返せば、今日の家に移り住んでからというもの、

自覚はうすいながら、徹底的に生活、日常の向上、基盤作りに注力してきたように思う。

7、8年前は、まだ毎日仕事をすることがあたりまえだったためお金の心配はそうなく、

生活向上のために、無農薬野菜を買ったり玄米を食べたり酵素ジュースを毎日つくったり、

身体に良いとされているものを知れば金銭的に可能なかぎりどんどん取り込んだ。

その型は、じょじょにくずれてゆき、ある種の神経質さはとけていった。

そして、持続可能な、無理を感じない現在の食事スタイルにおさまった。


情報キャッチ能力におそらく長けているぼくは、

だまっていても最新情報を見聞きし、今でも、玄米菜食的暮らしへの憧れなのか、

はたまたそうしないことへの恐れなのかがうずくことはあるけれど、

でも、それよりも信じている(信じたい)ことがある。


愛をもって感謝の心でありがたくいただけば、

どのような成り立ちの飲食物も、

きっとそれと巡り会ったその瞬間の自分の最善のものへと変容する。

存在するあらゆるものの根本には愛だけがある。

愛を食べていれば大丈夫。

ぼくはそう信じている。














今日のごはん

・アマニロースト入り食パン

・きのこマリネのサラダ

・ルバーブジャム

・塩レモンケーキ

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